仕方なく、U医師は老婆の気管内にチューブを入れ、人工呼吸器につないだ。心電計を装着して心臓マッサージを15分続けてみたが、緑色のモニターブラウン管に波形は現れなかった。看護婦が電話連絡して一時間ばかりで家族が到着した。50歳代と思われる息子夫婦だった。「母ちゃん……」農夫なのだろうか、首筋が赤黒く陽に焼けた息子は老婆の胸に顔を伏せた。「お婆さんたら……」頬の赤い嫁は白く変色した老婆の手首を握っていた。U医師は腕時計を見ていた。20分後、息子が泣き疲れたところで、「まことにいたりませんで」と、深く頭を下げてから、人工呼吸器を止めた。「ありがとうございました」息子夫婦は声をそろえて返礼した。U医師は胸の内でほっとため息をついた。同時に、老婆の死を悲しむよりも、訴訟になりそうもない現況を喜ぶ自分の小心さを軽蔑していた。看護婦たちが老婆の遺体をきれいにしている間に、U医師はナースセンターで息子夫婦に病状の説明をした。「肺炎はよくなってきていたんですが、今回の急変はたぶん気管の奥に痰がつまったのではないかと思います。人工呼吸器の空気が十分に肺に入っていなかったのだと思います。その上に…」今日の午後、老婆が家族を呼んでくれと言っていた事実を告げるべきかどうか。正直に話せば、なぜもっと早く呼んでくれなかったのかという議論になり、面倒なことになりかねない。「これだけ手をつくしていただいたんですから、おふくろも寿命ってもんだと思います。ほんとにありがとうございました」善良そうな夫婦はそろってU医師に深々と頭を下げた。U医師は喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、「こちらこそ、いたりませんで」と、直立し直して夫婦よりも深く礼をした。死亡した患者の家族には病理解剖の許可をもらうようにと医長からきつく言われているU医師だったが、家族に対しても老婆にもうしろめたいところがあったので申し出をしなかった。