自転車の旅の素晴らしさを人が語るとき、もうひとつのキーワードとなるのが「風」である。すべての自転車はオープンエアーで、サイクリストが走り出せば、風は彼を包み込む。その風は驚くほど多彩なニュアンスに満ちており、それだけで1冊の本が書けるくらいだ。真夏の火照った高原の下り坂で、落葉樹の梢がかぶさった樹木のトンネルにさしかかったときのあの冷ややかな大気の気持ちよさは、おそらくサイクリストにしかわかるまい。
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大きな川筋を旅すれば、坂ひとつ上っただけで、河岸段丘の上の町に、川沿いの道の川風とまったく違う風が吹いていることも、実感できる。またたとえば、春を告げる最初の風を知るのは、きっとその朝早起きして、サドルに跨った人であろうと思う。森にたゆたうフィトンチッドの匂い。峠を越えてくる潮風の息吹。ひなびた商店街の路地裏に流れてくる夕餉の煙。「風」のなかには、季節を告げるメッセージがあり、土地土地の固有のオーラがあり、そして人びとの生活を刻む時がある。風は無限の広がりを持って、あなたに何かを伝えようとするだろう。風と一体になる。いささか気障な決まり文句で言ってしまえば、それはそれだけのことに過ぎないのかもしれないが、サイクリストが自己を取り巻く環境とまで一体感を持つことができるということは、その体験の質的な深さを意味している。ペダルを回し、無意識のうちにバランスをとりながら風を切って進んで行くことは、乗用車の空調された室内のなかで、アクセルを踏み込みながら近づいて来る風景を眺めることとは、根本的に違う体験なのである。